歴史

光月院の歴史

不退圓説上人作とされる木魚(箱)

不退圓説(えんせつ)上人の生い立ち

正徳四年(1714)、近江国栗本郡下笠村に生まれる。幼きにして聡明で、八歳の時に出家。十八から諸国遍歴の旅に出る。享保の大飢饉の最中、多くの者が道端で死んでいく中、念仏の声は聞かれない光景を目の当たりにし、浄土への念仏道の弛みない教化を説法を通じて民衆とともに共有し会得していくことを決意した。二十三のとき、妙楽寺にて説法を行い、武士庶民群集して法雨に浴した。以後十年にわたり布教活動を続けたが、圓説上人の自己納得のものでしかなかったのであろう。どうすればもっと多くの人に真実の念仏を唱えてもらうことができるのか、圓説上人の心内は揺れ動いていた。

不退圓説上人作とされる木魚

開祖木魚念仏の”浄土一宗”の誕生

寛延二年(1749年)圓説三十八歳の時、木魚念仏を生み出す。魚は日夜問わず目を閉じないことから、寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味を込め、魚の形に作られた。口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背を叩くことで煩悩を吐き出させる意味合いがある。圓説はさらに、この木魚を小さくして手に持つようにし、ばちで叩くことで高揚感が出ると考えた。座しては居まい、行動あるのみ、開祖木魚念仏の”浄土一宗”の誕生である。圓説は風雨を別たず、木魚を叩き念仏を唱えながら、市中を歩いた。法を説き兼て、托鉢しながらの説法はますます広まり多くの弟子ができた。幕府に押さえつけられている鬱積した不満が、木魚を叩くことで逃れるような高揚した気分になり、野火のように木魚念仏が広がっていった。同じ頃、伏見光月庵(後の光月院)を創建した。庵という名が示すように、圓説和尚の終の住処として建てられたと思われる。

伏見騒動

時の人たちは圓説を大に尊敬し不退上人と呼ぶようになった。しかし、仏教界における新運動の動きに、異端批判が湧き起こる。読教にて木魚を鳴らすことが浄土宗の宗風に違反するとし、伏見三十余の本宗寺院が告発に及んだ。これが後に”伏見騒動”と呼ばれる。民衆を扇動しての騒動を巻き起こしたとの解釈を押し通した本山と公儀の強引な裁断であった。

所払い追放

宝暦三年(1752年)圓説四十一歳の時、異風惑世の議を受け山城法傅寺より所払いを受ける。法傅寺以下の末寺も寺領や什物を引き渡し、寺を明渡して閉門した。光月庵も同じような状態に置かれた。離散する信徒も多く、潮が引くように庵も寂れていった。

聖武天皇の勅願所の再興と顕彰行為

宝暦年間は幕藩体制の揺らぎと京の朝廷公家の不満が表立って京都で尊王諭者と公家が結託し、倒幕計画を構想する者まで現れた。この宝暦事件の最中、圓説和尚は聖武天皇の勅願所である宗金寺の再建を行っていた。これは顕彰行為そのものである。当時一番の尊皇の志があるのは、既成仏門から異端とされようが、幕府に流されようが、木魚念仏を唱え続ける一人の僧侶であり、多くの信徒を得た。

圓説上人の死

しかし圓説和尚はその結果を見ぬうちに、その生涯を大阪の地で閉じることになる。宝暦九年(1759年)圓説は病にかかり、自らの死期を悟り、一心に念仏を修す。同年八月一日後時を弟子に託し、八月三日の夜九時頃、北面西に臥せ、虚空を指し示し、「南無極楽世界阿弥陀仏。南無観世音菩薩。蓮台蓮台。南無勢至菩薩。善哉善哉」と合唱高聲し、唱え終わりて寂した。隣巴の人が、紫雲が屋上を覆っているのを見て、圓説の臨終を知ったという。

光月庵の再開の開基

宝暦九年(1759年)圓説和尚亡き後、和尚の遺志であったのであろう、時を置かずに密かに行動に移させていた。これに当たったのが大阪の神職出身・岡田氏「岡田小右衛門網喜」である。あくまで圓説和尚の終の住処として建てたであろう庵所であったため、廃れ住む者も居なかった。岡田氏が伏見阿波橋東詰に住居を構え大亀谷にあった廃寺の古材を移築して光月庵を再建した。十数坪の小さな庵であった。亡くなったとは言え、まだ放逐中であったが故に密かに行動に移されたことが推測できる。不退山・木魚院を名乗っていた宗金寺が大阪からなくなってしまった現在、圓説和尚の心は当、光月院にしっかり受け継がれている。

「光月院」の誕生

光月庵は第五世の上人までは法傅寺の末寺として、第五世からは洛東一心寺の末寺であったという。その後、幕末、明治時代と法尼が三代続いたがその間に庵は荒廃が続いた。第九世、大正九年(1920年)に改築し再興する。終戦後、昭和二十六年四月に新宗教法人が公布されたのを期に第十世の時、新規則の認証と設立登記を申請、浄土宗の「認書」も得て昭和二十七年九月に宗教法人「光月院」として京都府に認証された。「光月院」の誕生である。寺院としての形態が整えられたと同時に、大阪大空襲で焼失してしまった宗金寺より、木魚念仏の道場を継ぐ「不退山」の山号を受け継いだ。